「2016年お正月かるた」(「ビッグイシュー日本版」278号)の一句。鶴見俊輔さんのことば。落ちていく大学で、学ぶことの影響、落ちていく新聞を、読むことの影響はじわじわと効いてくる。
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社会性をもたない経済、社会性を持たない労働、社会性を持たない個人の誕生は人間たちに何をもたらしたのか。
私たちの社会では、必要だから生まれたものはそれほど多くない。多くのものは、それぞれの論理でつくりだされただけである。ところがそれが生まれてしまうと、そのことに適応した社会構造が生まれ、それなしには不便と感じる社会が発生してしまう。
社会のあり方と経済が一体化していない以上、つまり経済が経済独自の論理で展開している以上、経済は根源的な社会性を保持していない。
にもかかわらず、そのシステムの中で人は働いている。だからその労働は、根本的には社会性をもってはいない。
近代的な世界がつくりだしたバラバラな論理は、経済や労働を虚しいものにしてしまったのだと思う。
課題はどこにあるのだろうか。それは、経済が経済以外のものと結びついて展開するかたちを見つけだすことだろう。
しかし、ふりかえってみると、このわたしだって当時のスタローンに負けず劣らず牌がそろっていたのではないかという気がしないでもない。途中いろいろあって、以下が最後の一文。
つぎはわたしの番だ。Eye of the Tigerが聞こえてきた。
コメント力をつけるために心がけたい点をいくつか挙げておきたい。まずは、「人と同じことを言うのはやめよう」……こう書かれてしまうと、ボクなどコメントできなくなってしまう。そもそも人と同じかどうかの判断はむずかしいし、第一、一字一句「同じこと」はないだろう。仮に「同じこと」だったとしても、答える側は、なぜ「同じこと」を言ったのか考える価値はある。
「国の定めたこと」という呪符によって追い払われ、聞き届けられずに漂っている呻きの気配を察したなら、とにかく立ち止まって耳を澄ますこと。これがポスト3.11を生きる者の課題である。
たとえ政府が交代しても、権力が政府の側にあるという構造自体は変わらない。権力に吸い寄せられるようにして、何もかもが治者、つまりお上の周りに集まってくる。一方、被知者である一般民衆は権力と無縁な世界に生きていて、「官」と「民」との間には「高大なる隔壁が築かれている。ここから福沢(諭吉)は、「日本には政府ありて国民(ネーション)なし」という名言を(「日本文明の由来」で)残しています。
「正しい愛の形を決めるのは社会ではない。私生活の是非は当事者の判断に任せよ」。これがミッテランの真意であり、近代と宗教の分岐点が、ここにあらわれている。個人の行動は他者の自由を侵害しない限り、是も非もない、という近代個人主義の思想のあらわれ。だから、日本では成り立たない夫婦間の強姦罪がフランスでは、加重事由で、より厳しく罰せられる。70年代の性解放運動以降の、強制(同意のないこと)が悪であるとの世論を受け、1994年の刑法改正で変わった。
その小さな町々の中心には広場があり、そこには戦死者の碑がある。そこには死者の名前と、どの戦争で亡くなった(was killed)かが刻まれている。
日本に慰霊塔はあっても死者の名はない。明治政府以降、戦「没」したかれらは「御霊」になるからだ。しかし、明治政府に抗った白虎隊十九士の墓、薩軍兵士の墓「南洲墓地」、そして沖縄「平和の礎(いしじ)」にある刻銘碑は違う。
ワシントンD.C.にあるThe Wall(ベトナム戦争で亡くなった兵士の慰霊碑 Vietnam Veterans Memorial)にも名前が刻まれている。その名前をなぞる人も多い。
自分の考えや意見を持てといわない人はいないですよね。何で「意見を持つことに気をつけよ」なんてことを考えるのでしょうか。ぼくたちは、二度と戦争のない世の中を作ろうと考える。原発のない社会を作ろうと考える。それはいい。しかし、それが自分の考えだと決めてしまったら、それ以外の考えから攻撃されたとき、自分の考えを守ることに専念することになるのです。そのとき、人はもう何も考えていません。自分の考えを守らなければならない、ということしか考えなくなる。思考停止になるのです。(略)意見は作らねばならず、しかし同時にその奴隷になってはならない。なかなか難しいですね。努力したいと思います。
私は大学の農場で全国の学生に農業実習プログラムを提供しています。「聞いたことは忘れる。見たことは覚える。体験したことは理解する」。実習をしていて思い出すのは、老子の言葉です。「これだ、ワークショップの極意は」と思い、原文を確かめようとしたら、どうやら原典は「老子」ではなく、荀子らしい。
「その学部、本当に必要? 全国立大に見直し通知、文科省」(朝日新聞)「社会に必要」は誰かが判断しないと決められない。誰が判断するのか、いまの時点で判断できるのか。判断の基準は?
主に文学部や社会学部など人文社会系の学部と大学院について、社会に必要とされる人材を育てられていなければ、廃止や分野の転換の検討を求めた。国立大に投入される税金を、ニーズがある分野に集中させるのが狙いだ。
多田 日本でも、江戸時代に「名詮自性」という言葉がはやったらしいのね。もともとは中国からきたものですけど、名前が自分のアイデンティティを明かしている。(中略)そういう思想が、江戸も後期になると出てきている。「南総里見八犬伝」なんかにも、それは色濃く出ているんです。命名の快感か。考えたことがなかった。これも名前経験に加えよう。
天野 親は子供に、ある願いをこめて名前をつけますね。名前というのはあとからつけた単なる記号のようでいて、その実、その記号にかなり支配されたりするものなのかもしれない。
多田 (略)親がある意思を押しつけると、子供はそうならざるえなくなったりする。それが親にとっては快感なんでしょうね。
私たちに未来があるとすれば、それは「集中」と「依存」にではなく、「分節化」と「独立」にしかありえないのはたしかなことなのです。
久しぶりに目にした。スゴすぎたのか、選からもれたのがコレ。
「生きてるだけで丸もうけ」(ことばのちからコンテスト応募作品)。
電話の積滞(電話の加入申し込みをしてもすぐ設置してもらえない状態)解消のめどが立ち始める一方で、情報化社会論が提唱され始めるという時代の転換を敏感に察知した電電公社(現、NTT)を中核に設立された、メディアと社会の相関をさぐる研究所であった。経緯をいまごろになって知った。
スティールの『 ステレオタイプの科学 』に、こんなエピソードが紹介されている。 ある伝説の英雄と同姓同名の人物に出会ったことで、研究上の疑問が解けたという話である。 シャーマン・ジェームズは、人種による健康格差の問題に取り組む公衆衛生研究者である。たとえば、アメリカの黒人は白...