2017/03/19

話の差分

 昨日、WebLab Meetingで、ボクの送別会を開いてくれた。最終講義はする予定がなかったので、その代わりに、と北村さんたちが企画してくれた。

 前半は「CMC研究昔ばなし」と題しての講演。後半は懇親会。

 さて質疑応答の時間に、Fさんから「10年後のネットは?」と質問を受けた。知りたい気持ちはわからないわけでもないが、やはり「わからない」としか言えない。ネット以外の要因が不変であれば、技術可能性のみで答えられるのもしれないが。となれば、技術屋さんマターかな。

 その後で、Kさんから、わたしがF質問に関連して「(10年後)どうなるか、よりも、どうしたいかが大事」と答えたのを受けて、「どうしたい」と思っていますか?と返されてしまった。そのときは、「どうしたい」の中身よりも「どうしたい」という意志を持ち続けることが大事だと思っていたので、とっさには答えられなかった。いま思うと、中規模コミュニケーションの保証と言えばよかったかなと。「半径1mのミウチ」でもなければ、「大所高所でもないコミュニケーション」の追い風になるような環境づくり。

 「デジタル・パラドックス」、つまりデジタル技術の進行は社会や日常生活をアナログ化しつつある、と話したことに対しても質問があった。途中の思考経過を省いたので、伝わりにくかったようだ。ここでいうデジタルとは、物理的障壁の撤廃、シームレス、ボーダーレスをさす。

 文字も写真も動画も音声もデジタル技術によって境界がなくなった。こうした変化は、いっけん好ましいように思えるが、実は、境界があったからこそ私たちは生きてこられたのではないだろうか、という気がする。

 ボクは、サイトを開いたとき、メニューにリンク集を置いた。そのタイトルを「分散する知・情・意」とした。だが、その後の現実は「結束する」知情意、「切れ目のない」知情意となっている。知情意間も切れ目がなくなりつつある。感覚レベル(厳密には視聴覚か)はもとより、時間的にも空間的にも切れ目なし、節目なし。

 レヴィンの公式は、人間行動をこう規定する。
 B = (P, E) 

 人間行動Behaviorは、当該人物(Person)と、その場(E:環境)の関数であるという見方だ。

 デジタル化(大雑把に言って、情報のデジタル表現による一元化や、モバイルによるanytime, anywhwhereコミュニケーション)は、人間行動に占めるEを弱め、相対的にPを強めた。結果として、「しんどい」状況を生み出している。まあ乱暴な論理です。



岡田さんの感想ツイート
 こういう受け取り方があるとは思いもしなかった。ついでにいえば、研究は共同研究ばかりで楽しかった。



当日配布した冊子
(右冊子の内容は「初版/第1刷ユーザーのみなさんへ」と題した差分ファイル。構成は、1.『電子ネットワーキングの社会心理』第4刷 (2010) あとがき、2.『ウェブログの心理学』第2刷 (2012) 著者略歴、3.『インターネットの心理学』原著普及版 (2001) まえがきと、The psychology of Internet 2nd edition (2016) の構成)

 

フルネームで呼んでくれてありがとう

スティールの『 ステレオタイプの科学 』に、こんなエピソードが紹介されている。  ある伝説の英雄と同姓同名の人物に出会ったことで、研究上の疑問が解けたという話である。  シャーマン・ジェームズは、人種による健康格差の問題に取り組む公衆衛生研究者である。たとえば、アメリカの黒人は白...